好きと得意と求められること。
昨日の夜は中秋の名月ってことで、まんまるなお月様がとても綺麗だった。なんとなく、「月が綺麗ですね。」という言葉がふと思い浮かんだ。
見たまんま月が綺麗だなぁ、ということではなくて愛の告白という意味で。
かつて夏目漱石が「I Love You」を直訳した生徒に対して、「月が綺麗ですね」のほうが日本語らしいよね。といったとか言わないとか…。という話を知ってから「月が綺麗…」という言葉を発するときも聞くときも少しロマンチックな気持ちになる。
昨日書いたブログの「We are all alone」ではないけれど、言葉というのはコミュニケーションの道具として生まれたのに、こんな解釈が人で異なってしまうような、曖昧で奥ゆかしい側面があるのがとても不思議で面白く感じる。言葉というものが好きだ。
話が変わるが僕はバンドをやっている。高校1年の15歳から18歳の卒業まではギター、大学生になって少し経った18の夏くらいから現在までがベース。紆余曲折はあるが15歳から20年近くバンド活動を行っている。
15歳から弾いたギター。最初は楽しかったが高校の軽音楽部が最悪で、バンドもギターも嫌いになった。でも同じ中学の友人たちとギターを弾いたり、簡単なコピーバンドごっこをしたりして、嫌いではなくなっていった。
で、大学へ進学して少し経った頃、その中学の友人の一人から「オリジナル曲を作ってバンドをやる。ギターはもういるから、ベースやらない?」との誘いでベース歴が始まった。
なんやかんやで、初めての新品3万のベースからFender Japanや Warwick 5弦、70年代のFender プレべなどを乗り継いで、今はAterier Zの4弦をずっと使っている。ベースは約15年の歴なので才能はないが、人並み程度に弾ける技術は身についたと思う。
また、オリジナル曲をやるバンドということで僕も作曲をしたり、作詞をしたりするようになった。
作曲をするにはベースよりギターが都合がよくて、ギターを弾いていたら、副産物で弾き語りが好きになった。ドラムも簡単なビートは刻めるようになったし、鍵盤も流暢には弾けないが、作曲のツールとして利用できるくらいにはなった。
そして作詞にはまった。文章を書くことが元々好きだったためか、メロディより歌詞のほうがストックされ、作曲して完成したり、なんかちがうな、と思って捨てたりした歌詞もある。
一言にバンドといってもこんなにいろんな要素がある。バンドマンといってもバンド自体に向く向かないもあるし、バンドの中でもこれは出来る、これは出来ない、これをやりたい、これはあまりやりたくない…とかいろいろあると思う。
僕の場合は、一番好きでやりたいことは歌詞を書いて歌うことだと思う。できれば、ギターを弾きながら歌いたい。
作詞はもしかしたら、人並みかそれ以上にできるかもしれないが、ギターは中の下だし、歌うことに関しては良く見積もっても中の下。多分下の中~下の上くらいが妥当だろう。だから、バンドでギターボーカルをやる!というのは人の何倍も努力しても、開花しないのかもしれないと感じている。まぁ20年ほどもバンドをやっていると自分のできないことがわかる笑
作曲に関しても、メロディ的なセンスを自分に微塵も感じたことがない笑 作曲した曲を聞かせた人が感動する…なんてことも一度もなかった笑
ドラムと鍵盤もバンドで担当できるほどはできない。
唯一、ベースだけは才能がないなりにも練習をして他のバンドでサポートメンバーをしたり、Jazz sessionに参加したりするくらいの、アマチュアの中では1人前、サラリーマンでいえば新卒入社8年目選手くらいの感じの、「まあできる人」の立ち位置にはなったと思う。
ただ、このベースも「好き」で「得意」なことはピックで疾走感あるメロコアなフレーズを弾いてビートに乗ることや、バッチバチのスラップだったりする。
でも、バンドで僕のベーススキルに「求められること」は違うところであったりする。一応出来るけど「好き」や「得意」ではないと思う。(出来るってどういうレベルでいってんだよ?みたいなことはごめんなさい。あくまで主観なので…泣)
一つの事柄について「好き」だから「得意」までは繋げられたけど、「求められる」まで昇華できていないんだと思う。これが人様から求められるようなレベルに達した人がプロと呼ばれるのかなって思った。「好き」→「得意」→「求められる」が叶えられたら、「好き」と「求められること」が一致して、とても良いように思う。
でも本当にそうなのだろうか。もしかしたらプロと呼ばれるほどの人の中でも「得意」だから「求められる」けど「好き」ではないこともあるのだろうか…プロの中でも「好き」を叶えていない人というのが存在するのだろうか。
仕事も少し構造は違うけど、なんか似ていると思う。数年働いていると出来ることや得意なことが増えてきて、それを求められるようにはなるけれど、「好き」でないことは多々あると思う。というかそんな人がほとんどな気がする。「仕事好きで楽しすぎてたまらないよ~」なんて人は見たことないし、100歩譲ってその会社の中で好きな業務が1あるとしても、残りの9は嫌いかどうでもいい仕事だろう。たぶん。もしかしたら、俺がサラリーマン界隈の人間だからで、社長さん界隈ではみんな好きを仕事にしている、または、仕事が好きなのかもしれないが…
ちょっと違うけど恋愛もそんなような気がする。好きな人には振り向いてもらえないけど、それ以外の人からは好意を持たれる。だからこそ、好きな人と結ばれた時の嬉しさはひとしおなんだけれど。
…と、まあ、何事も「好き」を叶えるということはなかなかに難しい。好きだけど求められない、好きだけど叶わない、好きだけどうまくならない、好きなことで生計を立てられない…etc。そして逆に好きじゃないけど求められてストレスも感じることがある。「好き」が成就するというのは、とても素晴らしいことなんだな、と思った。
だからこそ、成就した「好き」は大切にしていこうと思う。
好きなバンドを続けられていること、ありがとう。
好きな洋服を買えて、着れたこと、ありがとう。
好きな食べ物を食べられること、ありがとう。
大好きなあなたと一緒にいられること、本当にありがとう。
…と、小さいことや日常的になってしまって見えなくなっていることでも、好きが叶ったものはある。そんな好きを改めて見つけて感謝していたら。すこしなんだか優しい気持ちになれた気がした。
まあ、何の話やねん!となる文章構成ですが、取り留めなく書いてるのですいません笑
好きで結果を出すことの大変さや、好きが叶っていることへの感謝や、好きと求められることが違うことへの苛立ちや…読む人が抱く感想は多分異なるだろう。
言葉は解釈が人で異なってしまうような、曖昧で奥ゆかしい側面があるので。笑
それでは、おやすみなさい。
今更の初ブログとWe are all alone
今更ブログ?
僕自身そう思う。instagramやTwitter、FacebookといったSNSが当たり前にあって、YoutubeやらTikTokやらTwitchやら、動画で配信するということが主流になってきている2022年のこの時代に「ブログ」である。
IT系記事や学習系、技術系のためになるブログや掲示板のまとめサイトや芸能などの世間の興味を惹くゴシップ発信ブログ、一部の有名人のブログ等は未だに価値があり、PVも多いものはあるだろうが、ただの普通の人の、世間の興味を惹く要素のない、雑談で大してためにならない、そんなブログに何の価値があろうか。
今更ブログ?誰がどう見てもそう思う。
ただ、たぶん僕は文章を書くことが好きなんだと思う。文章がきれいとか、上手いとか、才能があるわけではないけれど、文章を書き起こすことで気持ちが整理されたり、考えがまとまったりしていく。そして、結果として悲しい気持ちや腹立たしい気持ち、上手くいかないことへの苛立ち、そんなネガティブな気持ちが晴れてくる。逆に楽しいことや面白いことも文章に起こすことで、なにが楽しいと感じたかが明確になる気がする。…と、書くとなんだか人間味のないように見えるが楽しいことはたぶんよくわからないけど楽しかった!みたいなことを書くと思う笑
また、もしかしたら、誰かの目に触れたときに「あ、この人もおんなじようなこと考えてるんだ」とか思う人もいるかもしれない。そんな妄想をするだけでも、なんとなくある孤独感みたいな気持ちも薄れるし、コメントが来た日には、「おぉ!俺ごときの発言もコメントくれるほどちゃんと読んでくれた人がいるんだ!」とさらに孤独感が薄れるのかもしれない。
「孤独感」
最近TOEICで730点を目指し英語を勉強しているのだが、aloneという単語に目が留まった。エヴァンゲリオンの新劇場版の副題?でYou are (not) aloneという文字があったが、これは「君はひとりじゃない」という意味。notが()で囲まれているのはエヴァの考察ブログなんかで見てほしい。
alone、孤独、ひとり。そんな意味で捉え、You are not aloneは何となく孤独を感じたときに、「この空の下には同じような悩みや嫌なことがあった人もいるのだろう…」と思い気を紛らわしたりしている。
そんな折、最近Youtubeにて予備校講師の「西きょうじ」さんのYoutubeチャンネルで、Boz Scaggsの「We are all alone」という曲に触れていた。
We are all alone:我々はみんな独りぼっち
という解釈しかしていなかったが、リリース時の邦題は「二人きり」
そしてその西きょうじ先生のYoutubeを見て、自分でもBoz Scaggsの歌詞を見て、再度考えたら、
We are all alone:私たちすっかり二人きり
と訳したほうがいい。と確かに思った。
家で、彼女や配偶者といるとどちらの気分も味わう。
仲睦まじく、ソファに2人で腰掛けたり、ベッドをともにして2人で色々話していちゃついているときは、アパートの薄い壁や部屋のドアで外の世間から隔離されて、まるでこの世界に2人だけのような、幸せでロマンチックな気分で「二人っきりだね」の意味で「We are all alone」という言葉を思い描く。実に幸せな時間だ。大好きな大切な人と、いろんなことから切り離されて2人で愛し合う。
一方で、喧嘩状態や機嫌が悪いときは最悪だ。笑
ピリピリして、イライラが伝わってきてお互いに感情的になっていき、強い言葉で口論となったり、口をきかなかったり…そんな状態で薄い壁で世界と隔離された狭いアパートで2人でいても、いや、こんなに近くにいても分かり合えず対立してしまっているからこそ誰も理解してくれなくて、この世で俺は一人なんだな、みたいな気持ちで「独りぼっちだ」という意味で「We are all alone」という言葉を思い描く。まるで悲劇のヒーローやヒロインを演じているようだ。
ただ、日本語で考えたら「独りぼっち」と「二人っきり」という天国と地獄ほど真逆な言葉だが、英語ならどちらも「We are all alone.」
2人で一緒にいるなら、we are all alone.
今までは「二人きり」の意味を知らなかったこともあるけれど、we are all aloneは孤独を表す言葉だとしか思っていなかった。当然aloneの単語をみれば孤独が思い起された。
これからはaloneの単語を見たときに、「二人きり」という幸せな解釈も思い浮かぶようにパートナーのことを尊敬し、良好な関係を築いていけるように生きていきたい。
…こんなことを書いているということは今絶賛ギスギス中だからなのだけど。笑
俺への不満があったり、ギスギスしたりしながらも家にいてくれているパートナーに感謝です。俺は居心地悪いときは外に出でかけたりするので…良くないですね。
早く仲直りしてBoz scaggs の we are all aloneを2人きりで聞きたいな。
謝ったり、話し合ったりして早く仲直りしたい意思を伝えたい…
という、そこら中どこでもあるそんな戯言。
おやすみなさい。